三浦春馬さんが亡くなった。
自宅で死亡が確認されたのは7月18日で僕の誕生日だ。
他人にとってはなんの関係もない7月18日でも僕にとっては嫌でも意識してしまう日になってしまう。要するに誕生日は誰にでも人生の基本値として存在する特別な日なのだ。それが肯定的な意味か否定的にかかわらず。
そして、今思うと僕の7月18日には誰かしら人が亡くなっている気がする。
天国では忌日が誕生日
数年前血の繋がっていないじいちゃんも幸か不幸か僕の誕生日の日に静かに息を引き取った。
早朝いつも朝早い祖父が珍しく起きてこなかったため、祖母が起こしに行ったところもうすでに亡くなっていたらしい。
死因は老衰だったようで明方眠るように逝ったと医師が診断していた。
僕にとって3人目のじいちゃんは血が繋がっていない。
ばあちゃんが一度離婚し再婚した相手がその3人目のじいちゃんだったからだ。
ただ、3人いるうちのじいちゃんの中で一番長い時間を過ごしたのは血の繋がっていないそのじいちゃんだった。
今ここでは詳細を話すつもりはないけれど、僕の両親とは死ぬまでわだかまりがあったようで恨まれている部分も多かったらしい。
再婚した後に子供はなく、遊びに行くと「○○(僕)はうちの子になるんだよな?」とよく言われていたが、その深い意味と浅い意味のどちらもよくわからなかった僕はただじいちゃんが好きだから毎回「うん!」と元気よく返事をしていた思い出がある。
そのじいちゃんが生前僕に対して言っていたことがある。
「〇〇(僕)の誕生日はすごくいい日なんだぞ」と。
今思うけど、眠るように朝方亡くなっていたじいちゃんはひょっとして僕の誕生日の7月18日に死にたかったのかな?と誕生日の度にわからない真相を考える。
天国では忌日が誕生日になるそうだ。
亡くなった人の命日が天国では誕生日でハッピーバースデイソングが流れて、この世では葬式やら1回忌やらが行われる。
そう思うとなんだか悲しい気持ちとは別に「また誕生日がきたね。じいちゃんおめでとう。俺が生きている間は俺とおんなじ誕生日だね」とほっこりした気持ちにもなる。
今年で僕は25歳。
じいちゃんは今年で天国では10歳になってる。
血は繋がってなくても誕生日とか名前とかが同じだと不思議と血の繋がりよりも何か強い絆を感じたりするのはなぜだろう?
忌日と誕生日は辞書的には対義語だけど、この世とあの世では案外おんなじ意味として捉えられるのかもしれない。
僕にとってじいちゃんとは今でもおんなじ日に生まれてるような気がするから。
3人目のじいちゃんはそう思って誕生日を7月18日の僕の誕生日に決めたのかもしれない。
人の本当の死は人の記憶から忘れ去られてしまうこと。
だからじいちゃんは僕が誕生日を迎えられなくなるまでおそらく現世で行き続けることができるようにしたのかも。
しかもすごくいい日なのだから、僕と誕生日が一緒でよかったね。誕生日おめでとうじいちゃん。コロナでもしかするとお盆は線香あげれないかもだけどずっと覚えてるから心配しないでおくれ。
そして三浦春馬さん。
何かがあってそうなってしまったのかもしれない。
僕も親友を自殺で亡くした経験がある。
その親友も僕の界隈でひときわ輝いていた人で誰も自殺をするなんて思ってもみなかったことが記憶に新しい。
周囲の人間からすれば、ただただ悲しいし、悔しいし、親友として一方的に認知していただけかもしれないと自分の無力さを考えてしまう。
自殺という選択肢はどうしても周囲の人間をただただ思考させてしまう。
すでにこの世にいない人に向けて言葉を綴るのは難しいけど、僕はあえて「それはないよ」と言いたい。自殺した人間は何も悪くないんだけど周囲の人に対して「悪いことをしたなぁ」くらいは思ってほしい。
自分で自分の命を断つことは多くの人の人生に残り、
良くも悪くもそれは深く消えづらいものとなる。
そして、その痕跡は痕跡の持ち主しか昇華することができないんです。
その人個人の強さに委ねるしかない。
芸能人で活動内容も素晴らしかったあなたは特に人々の記憶に残ると思う。
その痕跡は家族や友人、知人のみならず多くの日本人やあなたを知っている人間をもしかすると苦しめているかもしれない。
自殺の責任は死後につきまとう。現世ではあまり叱責されないが本当に多くの人を苦しめてしまう可能性がある。
ただ、それを乗り越えた先にあなたの周囲の人々はそんなに柔じゃないから「あなたの分まで生きていこう」と必ず前に進むはず。
あなたはあなたの元に誰も来ないように見守る責任があると思うんです。
僕は親友を亡くしてから彼の分まで楽しい人生を送ろうと日々努力してる。
亡くなった当時、葬式が終わってもみんなナーバスになっていた。
葬式の時は友人代表でお別れの言葉をさせてもらった。
もう一緒に仕事の話とか結婚の話とか大人になっていくことができない、人生を一緒に噛み締めながら生きていけないと思うと虚無感しか生まれなかった。
そういうものは案外全てが終わってから込み上げてくるもので、彼の存在がないことに気づくと不思議と感情が湧き出てくるものだった。
ご家族や兄弟みたいな近しい関係の人は傷が癒えるのも多くの時間を要する。
多分今でもその日が来れば悲しい気持ちになるだろう。
ただ、僕はそんな君の家族の為にも君がもし生きていたとしてもそれに負けないくらい立派に人生を楽しむことを決めたんだ。
今は彼のやりそうだったこととかを大きくなった今の自分がやっていると、ふと「ニヤリ」としてしまうときがある。
そして、あの日救急に真夜中タクシーで駆けつけた際に払った2万1150円を返してもらう時に人生の喜怒哀楽をたくさん自慢しようと思います。
三浦春馬さん、じいちゃん天国での誕生日おめでとう。
僕の親友も安らかに。