先日の土砂降りでふと思い出したことがある。
以前バックパッカーをしていた際、タイでの出来事で現地で知り合った日本人と席がオープンな飲み屋でビール(確かチャーン)飲んでいた時、東南アジア特有の急なスコールが降り出したのをよく覚えている。
僕たちは『すごい雨だねー』と会話にやばいだのすごいだの雨についての感想をのべるそんな些細な出来事だった。
しかし、そんな些細なスコールが僕の中の記憶にはしっかり刻み込まれている。
その時に『1組の西洋人カップルが土砂降りの雨の中二人で踊り始めた』光景を目の当たりにしているせいだ。
あの土砂降りの日、1組のカップルが踊っていたのを覚えている。
どんなダンスというダンスではなかった気がする。
ただ単純にアメリカのダンスパーティーで音楽をかけて踊るような社交ダンスのゆるーい感じのダンスだった。
決してかっこいいとか、綺麗とかクオリティが高いものではなく単純に『雨を浴びて二人が踊ってる』そんな事実があるだけという印象の踊りだった。
人によっては『何してるんだろう?』とか『西洋人だからできる』とか冷めた目線でみたり(日本人とかそういうの関係なしにこれが普通だと思う)
そもそも土砂降りの中踊るなんてなんの生産性もない。
せいぜい、映画の中か3日間シャワーに入れる見込みがないかって時の最終手段だ。
でもなぜか、その光景に僕は『すごく綺麗だったし、とても美しい』と思ってた。
その時の僕らには前述したように、『雨に濡れると風邪をひく』とか『そもそも知り合って間もないのに雨の中で踊り出したらどうなるか』とか多分いろんな考えから『踊る』という選択はしなかったんだと思う。
『恥の文化』とは日本人特有のある種の美徳だけれども、今覚えばその場にいた日本人と数年経った今でも定期的に飲み歩いている仲になっている時点で結局のところ『周りからどうみられる』といった雑念はあんまり重要ではないなと。
(結果的に雨の中で踊り狂うよりももっと醜態晒してしまってるのに、それでも仲いいのは変わらない寛大な奴らだった。笑)
単純に『美しい』それだけで価値がある。
この世に無価値なものは実際ないのだと思う。
今は日本人の恥の文化を否定するためにこれを書いてるわけじゃなく、単純にそれが『綺麗だった。美しかった。』ということを伝えたかっただけ。
どんなに非生産的なことでも誰かが見た時に、あるいは自分たちがそれをするってだけで『美』を感じればそれだけで存在意義が発生するんだなと。
若かった僕の中で自分にとって無意味だとか価値がないと思うようなことでも誰かが付加価値を与え必要とする時があるそんな気づきを与えてくれた1シーンだった。
こんな記事だって誰が読むかわからない。
誰かが読んでもなんとも思わないのがほとんどだと思う。
だけど無価値だと思った事をそもそもしないことは本当に何も生まないことになる事を僕はあのシーンから学んでる。
といったことを昨日の大雨で結構昔のことをふと思い出してしまった。
あの頃今の僕があのシーンに戻ったら果たして雨の中で踊れるだろうか?
その踊った姿は1組の西洋人カップルが踊ってるように、雨に唄えばの主人公ジーン・ケリーが大雨の中踊る名シーンのように美しく踊れるだろうか?