思考ノイズ↵

このブログは僕自身の『思考ノイズ』をさらけ出す無駄話ブログです。↵

SNSやネット世界の一般化で世界は己の限界を押し付けてくるようになった。

SNSやインターネットがごく普通にはびこっている時代になった。もはや他人との繋がりはネット世界無しでは成立がしないものも存在する始末。

 

 

 

最近のニュースも踏まえてこれらがどのように社会から隔絶され壊れていってしまうかを元精神病を患っていた視点で書いていこうと思う。

(単純な愚痴とも言える内容です。ほぼなんの結論もないのでそこらへんはよろしくお願いします。)

 

 

 

SNSやネット世界の一般化で便利の反面、世界は個々人に己の限界を押し付けてくるようになった。

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SNSやネット世界の一般化で便利の反面、世界は個々人に己の限界を押し付けてくるようになった。


 

今現在ネットの普及で僕たちの生活はひと昔前の生活から異質な物に変化している。

 

一日中家にいたとしても自分他者の繋がりが途絶えないそんな状況下で暮らしているわけで、物理的な観点だけで物言えば『一人でいることがない環境』になっているわけで、他人との関係性がより強くなったと言っても過言ではないだろう。

 

 

しかし、最近は以下のようなニュースが聞こえてくるのも事実だ。

 

記憶に新しいのは川崎事件児童ら20人を殺傷した事件だ。
(少し前に下書きで書いた記事だったのでこのニュースを今更ながら取り上げています。ご了承ください。)

これは『ひきこもり』が起こした問題と捉えられがちだが、個人的には『社会からの孤立』という面が問題点として挙げられるべき要点だと思っている。

 

www.jiji.com

 

一部の記事内容を借りさせてもらうが、容疑者は『社会との接点がほぼ無かった』という立場だったのがわかる。

 

川崎市多摩区でスクールバスを待つ私立カリタス小学校の児童ら20人が殺傷された事件は、4日で発生から1週間。直後に自殺した職業不詳岩崎隆一容疑者(51)は同居する伯父夫婦との会話はほぼなく、携帯電話やパソコンも所持していなかった。周到に準備をした形跡はあるが、社会との接点はほとんどなかったとみられ、凶行に走った動機の解明は難航している。

 

僕個人としてはこれは『繋がりを絶たれた存在による反抗』とみる。

 

普通のひきこもりは『繋がりを自ら断った者』という解釈が正しく、彼らは彼らなりに社会と繋がることを望んでいる場合が多い。
(ネットゲームやSNS等ネット社会で上手くやっているケースだってある。)

 

彼は職業訓練などの試行錯誤があった事から意思は少なからずあったのだろうと思うが、51歳で最終的にこのような犯行に及んでしまったことから『繋がろうとして、繋がれなかった繋がりを断たれた存在』なのかもしれない。

(この辺は自殺した彼にしかわかり得ない無いようなので決めつけかねる。)

まぁ、

 

前者と後者の差異はないんじゃないか?と思う方も多いかもしれないが、僕としてはこれには明確な差があり前者は『社会と自分なりに繋がろうとしている』が後者は『結果的に何とも繋がれず、繋がりを絶ってしまった存在』と言えるだろう。

 

 

 

彼がどうだったかの論争になってしまうと趣旨がずれるのでこのくらいにする。

今回は『ネット社会が自分の限界を下す時代になった』と言う話。

あくまでも可能性の1つとして、ネットの世界が反映し、繋がりすぎた世界が自分の限界や可能性をある種の意味で押さえつけてくるようになったのではないか?と言う話をしようと思う。

 

 

社会から繋がりを断つ理由は『繋がり過ぎた社会の副作用』

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社会から繋がりを断つ理由は『繋がり過ぎた社会の副作用』

 

近代において、社会から繋がりを断つ者は後を絶たない。

僕はこれは『繋がりすぎた社会の副作用』だと考える。

 

結論から言うと『近代のネット世界は己の限界値を安易に測れるようになってしまったのではないか?』と推測していると言う話。

そもそもネット社会が普及する前に人にとっての自分の世界は周りの人間や本などの書籍などからしか情報を仕入れることができなかった。

 

ただ、技術の発展に伴いテレビなどのメディアの普及でも情報収集が可能になっていく、のちにネットなどでテレビをつけなくともメディアよりディープな情報をネット社会は提供してくれるようになった。

 

単純な目線からこれを見るなら、『より濃い情報を仕入れれるようになり人は強く成長できるようになった』とみれる。

だが、100人中100人がそううまく成長できると限らないのが十人十色の人間というわけで、前述した『近代のネット世界は己の限界値を安易に測れるようになってしまった』という問題に直面する人が出てくるのだと思う。

 

ネットのディープな情報はいわば僕たちにとって『より生に近い情報』だ。

ナマモノを扱う料理人には幾らかの資格や知識が必要なわけで、『情報の生物』にも扱える人間とそうでない人間が存在する。

 

専門的な知識や背景があったり、そもそも言語習得で日本語以外の情報を理解できるというのも情報を扱う上で非常に重要な要素だ。

それらが普通に行える人にとって新鮮な情報が仕入れられる今のネット社会はまさに水を得た魚状態ともいえよう。

 

 

それはさておき『近代のネット世界は己の限界値を安易に測れるようになってしまった』という部分の話だが、前述した例の反対の立場の人の話を例にあげてみようと思う。

 

ナマモノである現社会の情報を『うまく扱えない人間』はどうなっていくだろうか?

めんどくさいので結論から言うと『取り残されたり、限界を感じる』といった負の感情に陥る。情報が錯乱しているからこそ他者との違いが良くわかるし才能が溢れている人間を認知する場面が多くなる。それは自分には才能がないと思わせるのには十分すぎる内容だ。

 

他の分野の世界でも同等のことが言える。

今や全世界の人間がある特定の個人を認知できる段階まで発展してしまった社会は『才能がない者』や『目障りな者』に対しても牙をむくようになった。

誹謗中傷や炎上など顔の見えない他者を攻撃する争いが起きているのは日常茶飯事で、小学生がなりたい職業ナンバーワンの『YouTuber』もこれらとの戦いは人気が出ても終わらない。

 

 

 

長くなったので結論づけると、

 

『今も昔も他人の目があると生きづらい』って話です。

 

僕は群れたり、何かの組織に属したり社会のど真ん中で過ごすのが嫌いです。 

10代や20代前半にたくさん傷ついたのでなるべく小規模な自分が安心できる界隈での活動を心がけています。

 

普段から『ちょっと疲れたな(精神的に)』『やばい死にたいかも』って思っちゃう人はとことん社会や集団から離れてはいいと思います。
1つそうする選択をした場合に心がけてほしいのは、『それでも自分が安心できる社会との繋がりがあること』ここは必ず守りましょう。

 

 

人は一人になると発狂します。気が狂います。

 

誰かがいることが大切でできれば家族以外の自分に良くしてくれる人を探しましょう。家族は近すぎて逆に心を開けない場合が多いです。

それほどに『他人の大切な存在』と言うのは大きな存在になり得るポテンシャルがあります。

 

『繋がりすぎた副作用』でこうなっているにも関わらず、繋がらずには生きていられない人は中毒症状に侵されているようにも見えますね。

まぁ、麻薬も本来ある脳内麻酔ドバドバ出す成分なのでネットも似たようなものか。

 

と言うわけで今夜もブログを読んで自己顕示欲に浸りながらキマリましょう。笑

 

 

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では今回はこの辺で。